昭和51年05月23日 月次祭



 お腹が空いて居る時に、そこに食べものがあるならば、喉が乾いて居る時に、そこに冷たいお水がある飲みものがあるならば、これ程しのおかげはありません。これ以上の事は我情であり我欲であり。してみると私共は随分我情我欲の生活をしておる訳ですよね。ひもじいと思う時にそこに食べものがあり、喉が渇くなと言う時にそこに一杯の水があるならば、与えられておるならば、もうそれが最高のおかげ、それ以上の事は、我情であり我欲である。
 その我情我欲を離さなければ、真実神様のおかげもおかげとは分からん、我が身は神徳の中にあっても、神徳の中に生かされておるという実感が湧いて来んのです。有り難いなぁおかげだなぁと、もちろんその一杯の水一椀の御飯とということはです、例えば寒い時にこの着物がちゃっと着れておる、天露をしのがせて頂く住まいを頂いておる、そう言う事も含まれておる訳です。人間が生きていく上にです、いうならば不自由がない程しのおかげを頂いておるならばです、もうそれは最高のおかげです。
 だからその最高のおかげを最高のおかげたらしめるところに、信心があるのです。それから先は皆んなおかげおかげ、神様のご恩徳ご恩恵というて、お礼を申し上げる有り難いというその心にです、限りないおかげが約束されます。それにです喉ん乾く時に水一杯飲むとはもう当たり前、お腹んすいとる時にご飯をたぶるとは当り前、三度三度のお食事、もう不平不足を言いながら、ご飯を食べておるなんてもう、こん神様の対しお粗末御無礼な事はないと言う事になりますですね。
 喉が乾く時に一杯の水が与えられ、お腹が空いておる時にそこに食べ物があるならば、もうこれ以上のおかげはないというて、神様が生かしてござるからにはです、やはりそれに対する生きて行く事の為のおかげは、私共に与えられておる、その与えられれておる事を与えられておる事として、お礼を申し上げる生活が信心生活。そう言うところをです、いよいよ分からして頂くということが信心。それにはただおかげは頂かんならんから、そん時だけ参りよると言った様な、信心では分らないです。
 いわゆる信心を分からせてもらおう、信心を頂こうという気にならなければ、分からない。そこでその信心を身に付けていくことの為に何が一番大切か言うと、三代金光様のお言葉にもあるますように、信心はね辛抱する事が一番大切でございますと仰せられる。信心には辛抱をするということが一番大切でございます、十四の年から、八十四才のお年になられるまで、七十年間と言う長い間を、ただひたすらに一筋にご結界、ご神前奉仕をなさいました。
 始めの間はつろうて、つろうてよう泣いたと、仰せられる程しのところを通られました。けれども親様が座っておれば楽じゃといわれたから、座らせて頂いておりましたら、思う事も無くなり欲しいものもなくなり、ただ有り難うて有り難うてという心が開けてきたと述懐なさっておられます。そしてこの様なおかげを受けておる事の、御礼の足りないお詫びばかりをしておると、これは金光様ご晩年のお心のご状態であり、またご信心振り、いわゆるご様子であったのでございます。
 まぁ私共が存じ上げておる限りにおいても、やはりそうであったということです。思う事もなくなりと言うと、あぁしたいこうしたいというものもなくなった。あれが欲しいこれが欲しいと言う様な心も取れてきた。そこにです、わが身は神徳の中に生かされてあるという実感の中に、教団全体ではない、世界真の平和を世界総氏子の身の上安全を、祈り願い続けられての七十年間でおありになった。信心にはだからもうこれは金光様が十三才の年から、八十何才までの七十年間という間を。
 ご辛抱し抜かれたご体験の結集されたエキスのお言葉です。信心には辛抱する事が一番大切でございます、辛抱する事が大事です。辛抱し抜く事が大事です。今日こちらに出らせて頂くのに、もうあのうちょうど夕食の時に、まぁのっぴきならないお客さんがございまして、もう今夜お月次祭じゃけんと言う訳にはいかないような方でしたから、お酒のお相手もさせてもろうて、少しもう御ビールじゃからと思うて、ところが最後にお神酒をちゃんぽんして頂きますから。
 けれどもそれがやっぱ回った。家内がもう親先生お祭りの時間ですよ、というて起こしに来てくれましたけれども、もう頭が上がらんごときつい。まぁ普通で言うならば、もう今日は若先生に祭主をさせて、そして後からお祭りが済んだならば、まぁ皆さんにご挨拶どんさしてもろうても良い、と言う様なところでしょうけれども、まぁこれが私のいわば根性でございます。神様もう本当にもう相済まん事で、只今この様な状態でありますから、どうぞお祭りだけは奉仕させて頂く事をお許し頂きます様にと。
 それこそ枕に頭をつけてからお願いさせて頂いたら、神様から楽という字ですね、合楽の楽という字を、もう崩せるだけ崩したと言った様な感じで頂きました。この白と書いて、木が書いてある横ぞに糸偏のこう、があるわけですよね、その白という字を書いて、横にちょいちょいともう、もうちょいちょいと点が打ってあるんです。そして下に木と。まぁ今日はそう言う様な不行き届きの事であったけれどもです。まぁここ辛抱しぬくということきつうても一つ、おかげを頂きたいというその心に免じてです。
 まぁ楽という字に見てやろうと神様が仰る。もう今日はこんなだから、ご無礼になったというて、心に引っ掛かる様な感じでしたけれども、おかげで神様のその広大無辺のお心、深い大きいお心に、感激して今日のお祭りを奉仕させてもらう事が出来た。今日はこんな状態ですからご無礼します、というとったらもう私の信心にはならない事になる。もう楽という字は崩れてしまう、もうやっとかっとであっても、この白の横に点点がついとるだけで、神様は楽という字に見て下さった。そんな感じです辛抱が大事。
 今日はちょうどもう一月も前だったでしょうか。ある娘さんがお参りしてきた。こちらで結婚を言い交わした中であった。その相手の男の方が東京に転勤になったから、自分も東京にいこうごとあったけれども、いろんな事情で行けなかった。それから何ヶ月かして、なんかそのあのう手紙が参りましたのに、その今までの縁と諦めてと言う様な手紙が来た訳です。いろいろ調べてみるとあちらにその、良か人が出来とるということが分かったんです。
 そうして一月前に来たその手紙には、上書きには本人が書いてありますけれども、中身は相手の女の方が手紙を書いている。そしてねそのもう散々あのあんたよりも私の方が彼は好きというから、今後手紙なんかは出さんでくれと言う様な事が書いてある。もうそれこそこれに血が上るようにそのあった。このまま東京へやらせて頂いて、それこそもう本当につかみかかりたいばっかりの思いであった。所がです神様にその事をお取次ぎさせて頂いたら、本当にそれは私が聞いておっても、本当に腹が立つごたあるけれどもね。
 さぁここが辛抱のし処じゃないだろうか、しかもそれはただの辛抱じゃ無い、ひとつ修行と思うて、彼のためにも自分のためにも、またはその関係がでけておるという人のためにも、これは辛抱するべきだと、そしてそれはただの辛抱じゃない、もうそれこそもう、放心状態のごとして参ってきよりました。参ってくる時、本当にあんなにあると思いました。もうお届け聞かせてもらい泣きするごたある。もうこちらでは両親もその事はちゃんと分って知っておった。それがそう言う事になってきたのです。
 その時に私が頂いたのが、あの信徒の徒という字、行にんべんに走ると書いてある。そん時に私はその行にんべんのその行にんべんをにんべんに、こう走るという字を頂いた。行にんべんに走ると書いて、信徒の徒と書くのですけれども、上の行のにんべんになります。こう言うお知らせを頂いて、それこそ普通で言うならば人間心でいうならばです、それこそ走って行って、相手の女子にでもつかみかかりたいごたあるその心持ちなのだけれども、さぁこれがひとつ修行ぞと上にのの字を書いちゃる。
 にんべんから行にんべん、人はにんべんでも、私は行にんべんでいかなければいけない、そこに皆んなが立ち行く道が開かれるんだと、お知らせを頂いて東京行きを止めた。そしてもう毎日毎日、そりゃそのう有り難い気持ちになれるだんじゃなか、やはりもうここに参ってる時には、放心状態のような状態で参ってきておりましたが、今日はその手紙を持って生き生きとして参って来たんです。
 それが又向こうのその本人から手紙が来た。それにはもういろんな事情があって、もう神様のご演出には恐れ入ってしまう、いわば改めて貴女にお返しする、という手紙であった。一月間の辛抱が、花になって実に実ろうとしとろうとしておる訳です。辛抱が大事でしょう。辛抱がでけそうにもないところをです、もう普通では辛抱がでけんところを、信心させて頂く者はです、それに人がにんべんならば、信心のないものがにんべんならば、私は信徒である信者である、だからそれを行としていくという。
 ちょっとした心の使い方一つでです、信徒としての値打ち、信心を頂いておるものの値打つがそこにあると同時に、その一月後にはです彼も助かれば、彼女もまた新たな道が開けるという三方立ち行くような、おかげになってきたというのであります。金光様のご信心はね、だから辛抱する事が一番大切です。それ人間生身を持っとります様々な事がありますけれども、それでもですそれでも、そこを辛抱しぬかせて頂く事によって、もうそれはでけたものとして、楽という字には読めないごたあるけれども。
 ただてんてんのところだけでも、神様は楽と言う字に受け取ってやろうと、言われるような神様なのです。だからどうでも信心辛抱させて頂いて、この神様のお心が分かり、この神心親心に感泣しながら、感動を持って、信心の稽古を続けさせて頂かなければいけません。今日は福岡の川上さんのご主人の、お父さんの亡くなられまして、今日は百か日に当たる百日祭であります。私が奉仕をさせて頂きましたが、本当に亡くなられて、亡くなられる寸前に、お道の信心が分かられた。
 今までは神も仏も言わなかった方が、嫁の信心に感動して、本当に奥さんがおいでられて、お話しを聞かれる事を楽しみにしておられた。それが十日、十日のお祭りたんびんにこう御霊様が、こう生き生きと助かっていかれるような、ご様子を私はその十日、二十日、四十日、五十日祭を皆さんに聞いて頂いた。御霊ながらにも、なるほど生きても死んでも、こん神様のおかげを頂かんならんという事実が分かって、御霊ながらに精進をなされておられる。
 今日私は神様にその事をお届けさして貰いましたら、あの花札ですねあの六百件と言います、あの花札のあれはなんちゅうでしょうかね、お月様が丸く出とる花札がありますよね、カードがすとあの盃がついとる、あれを二つ取りますとあれは月見て一杯、というその役になる訳でしょう。確かそうですね。そのお知らせを頂くとうことは、御霊ながらも月という事は自分自身の事であり、御霊の事であり人間私共の事であります。
 自分の心を眺めさせて頂いてです、まぁ本当に長年何十年間という、天地の大恩も知らずに過ごして来た事をです、死に際になって分らしてもろうて、その大恩ぼうぎゃくの生活から、報恩の生活をさして貰うということが、生前僅かであったけれども分からせて貰い、御霊の世界に入っては尚更の事、そう言うおかげを頂いて、我ながら自分の心に有り難いものを感じておられる。月見て一杯、自分の心の中に有り難き勿体無きが、自分の心を眺めただけでも有り難いと言われるような。
 ようこそ嫁が信心をしておってくれた、息子が信心をしておってくれた、おかげで私が助かっておるというふうな喜びを頂いておる御霊なんです。それに今日は二人の孫達も、それから息子達夫婦も、今日はおかげを頂いてお参りをさせて頂いて、お祭りを頂いておる。それにね、あの桜の花のカードがありましょう。それに桜の花のカードを添えると、今度は、月見ていっぱい花見手一杯、という大きな役になる訳です。
 御霊様自身が、自分で自分の心の上にです、有り難たいものを感じられておるだけではなくて、遺族の者がです、それに花を添えるように、有り難き勿体無きをここに添え、花見手一杯を添えてくれる所に、これが一つの大きな役になって御霊も助かりいうならば、それを奉仕させて頂く遺族のものもまた、信心の喜びに浸らせて頂く事が出来る、花見て一杯月見て一杯というご理解を頂いた。本当信心て有り難いなと思いますね。
 これと同んなじように、昨日はあの林さんという方のお父さんが亡くなられて、丁度三十日にあたる。ほいで仏教でしてその林さん一人の御信心ですから、もうそれは信心にしの字も寄せ付ける方じゃなかった。それが亡くなられる少し前から話を聞かれるようになった。もう本当にお爺ちゃんは金光様好きなさらんなら、好きなさらんでんよかけん、お家のご仏壇だけは、拝みなさらなきゃいけませんよと、言うておったけれども、ご仏壇も拝む人じゃなかった人がです。
 亡くなる少し前からご仏壇にお灯り上げて拝まれるごつなった。そして林さんの話を聞かれ、いうならへちこぼさんな、素直に聞かれるようになった。いよいよ休みつかれてから、まぁ白真剣に御取り次を願っておられましたが、おかげを頂いてもう実にそれは、見事なお国替えであった、そのお母さんお婆さんになる方も、もうあんたが信心してくれるおかげで、爺っちゃんがこんな立派な、お参りの仕方がでけたというて喜ばれる程しの、まぁ大往生のおかげを頂かれた。
 その御霊様が三十日に発たれたので、あれほど生前もお願いしてもろうたりしておったから、三十日目改式しておる訳ではないけれども、御霊様に好きなものの一つでもお供えさせてもろうて、玉串の一本も上げさせて頂こうというので、昨日親子で参って見えられた。神様に先ずお届けをさせて頂きまして、神様のお知らせを頂いたことがね、歌舞伎のお芝居の中にあのう丸橋忠弥と、松平伊豆の守のお堀端での、出合いのところの場面があります。皆さんご覧になった事があるでしょう。
 丸橋忠弥がこう蓑をつけてね、雨が降っている訳です。でそのキセルをこんなふうに構えてん、それこそ水の堀の深さを試そうとしておるところへ、松平伊豆の守が後から傘をこうやってたてかけておる。上からこうして確かに今まで雨が降りよったのに、降り止んだかと思うて、手をこう忠弥が前に出しますと、上に傘がさしかけてあった。そういう場面を私は頂いた。
 七十何年間という長い間をです、こういう天地の親神様のご守護お守りの中に、御恩恵の中に生かされてきておったことも知らずに、七十年間と言う長い間を過ごして来た。言うなら神様のご守護の中に、信心があってもなくてもおかげは、皆にやってあるると仰るようにです、天地の親神様のおかげを頂かなければ、実は信心のあるものもなものも、ここ一寸動かれんのが実体なんです。
 これは生きても死んでも天と地はわが住家と思えといわれる、生き死にを通して、この神様のおかげを頂かなければならない、お道の信心とはこの神様のおかげを頂いておる、ということを分からしてもらい、その神様のおかげをね、神恩に報い奉ろうという生き方を教祖は追い、金光教という信心が打ち立てられたのであります。確かにです濡れなければならない、確かに降っておったはずのに、降り止んでおるからとちょっと上見たら、上に黙ってある方が、傘をさしかけておってくれたようにね。
 信心があろうがなかろうが、いつも神様がさしかけて下さるその傘、いうなら傘下に神様のその懐の中に、傘下にある私達であるということを、先ずは知る事が信心の根本であります。知ってそれに報いるという心が、奉仕の生活であります。その御霊様もやっぱり何十年間という間は、神様にいわば忘恩の生活をしてきたのだけれども、死に際になってです、嫁のおかげで神様の御恩恵を受けなければ、もしこれを知っていなかったならば、御霊の世界に入ってもです。
 それこそ何のためにここに来たのやら、何のために自分がこんなに苦しまなければならんのやら、訳すらも分からずに縋る術も分からずに、長い間の又御霊の苦労をする事であっとろうけれども、ここにこういう御恩恵の中に、神様のおかげの中にあるんだということを分からしてくれた、嫁に対してです、いわばお礼を言いたいような御霊様の状態ではなかっただろうかと、こう思わせてもらう。
 私共が信心させて頂くというても、それこそおかげ受ける時には、神様にもう自分の思うとおりにならなかったら、神様はあるやないやら分からんと言う様なものではなくて、もう信心と言うものはもう、その根本がです、この神様のおかげを頂かなければ立ち行かないんだ、というしかも生死を通して、だということを根本に於いての信心である。そこでその信心を段々育てていく、大きくしていくというところに、大きな信心に、大きなおかげが受けられるということになり。
 信心によって自分の心が救い助けられる、いうならば信心の有り難さというものを、こうして維持し続ける、持ち続けられるというところにです、信心の今日申します辛抱がいるということでございます。確かに昨日は有り難かったんだけれども、今日はもう有り難いはどこへやら、いうならば有り難いという信心を支えておらない、なぜかそれはです、私がいつも言う成り行きを大事にしないから、起きてくる一切の事を神様の御働きとして、もう受けるという腹を決めさせて頂くところからです。
 有り難い勿体無いの信心を支える事が出来るのです。どういうことがあっても合楽にご神縁を頂いたということは、有り難い事じゃある、以前の私ならそれこそ向こうにつかみかかっていこうごとあるところだろうけれども、ご理解を頂いてこれを修行と思うて、辛抱させて頂いておるというところに、信心が一つ月間支えられたら、さっきの話信心が支えられておるうちに、おかげが頂けておる。この有り難いというものを支える心はです、本気でひと修行させてもらおうという心なんです。
 その修行をここでは今成り行きを大事にする、起きてくるあなたの前に起きて来るどういう問題であろうが、それを有り難く頂くと腹を決める事なんです。それが信心を支える事になり、ならその信心を育てるということはです、そう言う信心の喜びを持って、信心の真を表していこうというところに、信心のお育ては限りなく頂けれる。その信心を支えたり取り落としたり、信心の真どころはもう、どこへやらと言う様なところですから、信心はしておるけれども、何十年の信心が何十年の信心の実りになっていない。
 堂々回りになっておる、信心が育たなければなりませせん。ためには頂いておる信心を支える為の修行がいる。そしてその信心の喜びを持って真を現わしていくという、信心さして頂かなければでけない、無条件のいうならば奉仕と、神の心を心としての信心修行がでけるところからです、いよいよ信心が成長になって来る訳なんです。信心が育たなければいけません。成長しなければいかん、それにはあるここまで頂いた信心を落としてはなりません。
 それを支えるものは、私は修行だと思う、または辛抱だと思う、もちろん辛抱ということは信心辛抱ということです。今日のご理解を頂いて、ははぁ私共が金光大神の取り次ぎを頂いて拝まして頂いておる神様は、こういうご性格こういう方だな、ということを分かって頂いて、そういうことが分かったら、言うならば只今申します、信心をいよいよ育てていこう、この有り難いものを落としてはならん、そういう精進をしなければならならない。それをお道では修行というのだ。
 そういういうならば信心の有り難い、そこからです本当に合楽の御神縁を頂いていなかったら、今頃はどんなになとっただろうか、ひと月前にあの時に向こうの女子につかみかかって喧嘩して自分がたとえ勝ったにしろ、それはもうそれこそ四駄五駄になっとただろうけれども、一月間辛抱させて頂いておるうちに、三人三様それぞれの道がついてくる、と言う様なおかげを頂いて、初めて合楽の御神縁を頂いとったということの。
 その有り難さというものが、今朝のご理解を頂くとちょうど自分の心の中に、暖冷房の装置したようなものだと頂いた。そういう合楽にご神縁を頂いとる事が、有り難いなぁと思う心です、暑い時には冷房を押さえ、はぁ暑いなともう時には、暖房のスイッチを一つ押せば、言うならば春だろうか秋だろうかと、いつも言うなら極楽の心の世界が開けてくるのでございます。
   どうぞ。